◎真愛
昭和四十三年三月十八日 月次祭
生神金光大神取り次ぎの道が、生き生きとして取り次ぎの道の働きが、生き生きとしてお互いの生活の現場において現される。金光様の御信心は、ここんところを頂いていかなければならん。取り次ぎの道の働きをですね、それぞれの生活の現場のおいて、現していくという事。もし取り次ぎの道の御ひれいでなくて、ただ自分が、今日ある方が申しましたが、天地の親神様に直結する、直送する、といった様な事を言うておられますが、そういう意味合いで、例えば、よしそれがおかげになりましてもね、それは金光教的御信心のおかげではないという事です。
取り次ぎの道の御ひれいが御取り次ぎを日々頂いて、そうしてそこにお互いの生活の持ち場が、または立場、所謂生活の現場において、お百姓される方はお百姓の上にね、お商売をなさる方はお商売の上に、学生は自分の勉強させて頂いておる勉強の上に、金光大神取り次ぎの道の御ひれいが、そこに現れなければならん。御取り次ぎを頂かずに、いうなら天地の親神様と直結する道もないではない。けれども、そういう例えば、私は参らんでも、御取り次ぎは頂かんでも、おかげを頂いておるというのは、成程、それはおかげを受けておる事は間違いないけれども、取り次ぎの道の御ひれいを、そこに現しておるという事は言えない。
本当の金光様の御信心のおかげの受け方、現れ方、それがね、どういう結果になるか、それがどういう事になるか、御取り次ぎの道の御ひれいね、それをお互いの持ち場、持ち場の現場において現していくおかげ、そういうおかげがどういう事になっていくかという事を、今朝の御理解の中に頂いております。高橋ひろしという大変教学の大家がおられる。もう、おじいさんです。有名な先生ですがね。その先生がそう言うておられる事の中に、こういう様な言葉を使って説いておられます。「御取り次ぎを頂いてできた事は、良い事も悪い事でも皆良い」「御取り次ぎを頂いてできた事は良い事も悪い事でも皆良い」これは人間の見方というものがです、例えば、お商売ならお商売を、商売をさしてもらって儲ける事だけが良いと思っておる場合、実を言うたら損する事の方がおかげの場合もあるんです。ここんところをわかりやすく言われた。ね。御取り次ぎを頂いて、降ろうが照ろうがそりゃあ皆なおかげだという事、ね。
「御取り次ぎを頂いてできた事は、良い事も悪い事でも皆良い。御取り次ぎを頂かずできた事は、良い事でも悪い事でも皆悪い」金光様の御信心はね、ここのところの確信から、日々の信心修行に励まされ、励ませて頂くところから、お道の御ひれいが頂かれる。そのお道の御ひれいを、いうならば、ここで合楽の教会でこの様に現しておる、お道の御ひれいをこの合楽教会では、この様な形で現しておる。日々。そういう御ひれいがです、お互いの生活の現場、家庭において職場において、めいめいの持ち場、立場の上においてここで頂いておる様な御ひれいが頂かせてもらえれるという事。そういうおかげであるならばです、見た目にはそれは悪い事の様に見えても、それは皆良いと言うておられます。
けれども、今朝さっき申しますその天地の親神様に直結する御取り次ぎを頂いていない、頂かない、お参りをしないそれでも「金光様」と言やぁですね、御取り次ぎ頂いた様にあるけれども、それは天地の親神様と直結する「一心に祈れば我が心に神がござるから、おかげになるのじゃ」とおっしゃる様なおかげにそれはなる事はなる。けれども、そういう例えば、おかげはそういう生き方に、例えていうならば、お商売ならお商売がどんどん繁盛しておっても、それは皆悪いともう極言しておられます。「御取り次ぎを頂かずにできた事は、良い事でも悪い事でも皆悪い」私共ここんところをですね、確信させて頂いて、日々の信心修行に取り組ませて頂かなければ、今日、私一番初めに申します、金光大神取り次ぎの道の、所謂、御ひれいがお互いの現場の上に現して行く事ができない。それを現して行くそういうおかげであるならばです、もう絶対のおかげが約束される、これならくるいがない、間違いがない、金光様の信心をする者は、そこんところを信心さしてもらえれるおかげを、頂かねばならんと思う、ね。
御取り次ぎを頂く。
今日もここで修行生の方達が、まあ自分勝手に一生懸命それこそ誰-も知らん様にこっそりと、様々な修行をするんですね。お風呂に入らない修行をする、水行をする、断食をする、ああだこうだで、様々な、そのやはり一生懸命の修行を致しております。けれどもその事を、今朝この事御理解頂いてから、御取り次ぎを頂かずに修行さして頂いておるという事が、これは本当の事じゃないというので、改めて修行を御取り次ぎを頂いてから、修行さして頂くという事に気づいたとこういうのである。
これはね、もうただ一生懸命修行さえすりゃあよいという事じゃない。小倉の桂先生がある修行をなさった。強引に一生懸命なさった。ところが神様からですね、「桂松平、その修行は神が受け取らん」とおっしゃった。それでもやっぱり強引になさっておられた。そしたら、もうそれこそ危ないところで命がないといった様な事になられた時に、初めて神様のお許しにならない修行ではだめだという事を悟られたという様な事が御念記になっております。御取り次ぎを頂いてお許しを頂いての修行であり、信心でなかなければならない。御取り次ぎを頂かなければいけない。
そりゃあ、遠隔地の人達は、いちいちここに参って来る事もできない。けれどもね、そこに、まあ場合によっては電話ででも、御取り次ぎを願われる。けれども私はですね、そういう視野のこまい事ではない。御取り次ぎを頂くという事は。ここはね、これはもう説明もできないですけれどもめいめいがね、心の中に御取り次ぎを頂いて、おかげを頂いておるという実感がね、あればまあいいと思うんですね。御取り次ぎを頂いておかげを頂いておるという実感、もうこれより他に説明がないけれどもです、御取り次ぎを頂いとらんばってん、おかげ頂きょうるといった様な考え方があったら、これは例えよし良い事であっても、それは悪いとこう言っておる、ね。
だから、いちいち参って来なければならんという事じゃあない、ね。
【 】先生が毎日よう参ってみえる。もう時間がないから電車の中、バスの中で一生懸命御祈念をしておる。
そして御取り次ぎを頂いてから帰られる。もう、ゆっくり御祈念もできない。御理解なんかでも、もう日曜の時なかなければ頂けない。という様な、まあいうなら、けたたましいお参りである。けれどもバスの中で、電車の中で一生懸命御祈念をする、時にですね、どうぞ金光様のお出ましをお願いする、金光大神の御取り次ぎを願われる、そうすると必ず、ここの御結界に親先生が座って下さる。場合にはニコニコとして下さる時があるかと思うと、こわい様な顔をなさっておる事もある。かというと全然そちらを向かずに反対の方を向いとられる時と「親先生、親先生、どうぞこちらを向いて下さい」一生懸命お願いしても、お願いしても知らん顔をしておられる様な事がある。心の映るところの御取り次ぎを願っておられるわけなんですね。そういう時にゃあ、一生懸命自分の心の中に改まらしてもらおう、改まして頂きますと金光様、場合には親先生が向きを変えて御取り次ぎを下さる、態度を示して下さる、というふうに、御取り次ぎの道の厳しさというか、または有難さ、電車の中ででも御取り次ぎを頂けるという事を言うておられます。
同時にそこにです、御取り次ぎの道の御ひれいが、お互いの現場に現れてくる事の為に、お互いが信心修行を怠ってはならない、ね。そこに一生懸命の信心修行、
先日から、あの隅田先生が見えとる時におしゃっておられた言葉の中に、信心は一年間でもう決められる。いわば、ヤァ-という本当の本気での神様にうち向かう信心をさして頂いて一年で決まる。そういう様な雰囲気が、今ここの広前に非常に強くなった。私が、まあ若先生が五時の御祈念を奉仕しておる。五時四十分くらいまでかかる。それから私が二、三十分間御用さしてもらう。御理解を説かして頂く。もう私が五時にここに座った時にゃあ、もうほとんどこのお広前が、もうぎっしり半分、いっせいいっぱいじゃないけれど、(笑)ぎっしり半分くらいは、もう五時の御祈念前にゃあ皆な出て来ておられます。
こりゃあもう、それこそ本気でひとつ、一年間で極めようといった様な、私は強い祈りと願いがそういう修行に現れておると思います。だらだらっとした様な信心が、十年続いても二十年続いてもだめだというふうに、隅田先生は説かれましたですね。そういうおかげを頂かしてもらわなきゃならん。そこから生まれて来るところの、真に有難いというその心が、いよいよ生活の現場に現れてくるおかげ、または自分の心の中に頂けるところの、おかげになってくるのであります。
有難いまたは真に有難いという、有難いという事はどういう事であろう。もうお風呂の中へでも入らして頂いて、熱くもなければ温くもないと湯舟に浸からして頂いておると、もう本当に自ずと湧いてくる有難い「有難い事じゃ。有難いなあ」と思う。けれども、こういうのを私は真に有難いのじゃないと思う。これなら一応信心さして頂く者ならね、熱くもなからにゃ寒くもない、丁度良い様な、そのお風呂の中に入らして頂いて「金光様、有り難うございます」これが出ないはずはない。こりゃあ皆な出るだろうと思う、ね。けども、そういうこれも有難いのですよ。けれども、その有難いのは次に確かめるものがなかなければならない。それとは反対に水をかけられる様な思いをする時でも「金光様有り難うございます」と言えるならば、それこそが真に有難いのであります。
だから、その真に有難いという心におかげがあるんです、ね。そういうところがいよいよ楽しみの信心にならなければいけません。「茗荷栄える蕗繁盛」その御理解がある。茗荷というのは喜びの妙と。蕗という野菜はもう繁盛するこの根が張るお野菜、茗荷こそ自分達の心の中に、その喜びの妙、真に有難いという心がいっぱいはびこってくる様にです、心の中に喜びがいっぱい心に広がってくる。そういうおかげを頂かせて頂いたらもうこれは、それこそ願わんでも頼まんでも、蕗繁盛のおかげが約束される、ね。蕗繁盛のおかげだけを頂きたい前に、まず茗荷が栄えるというところを、一つ頂かにゃあいかんという事がわかります。
そこでそういう難しい事がです、そう簡単に頂けるとも思われませんけれども、こちらが精進し努力さえさして頂きゃあいつでもいただかれる。なぜっていうのはね、私共の周囲にはあまりにも不平を言わなければならない、不足を言わなければならない、目にあまる様な事があまりにも多すぎる、皆さんどうですか。子供が言う事をきかん、ね、親がおやかたない、ね、店員がどうも影日向がある、ね、隣の人がどうじゃ、向かいの人がどうじゃという様な事にまで、こりゃあ広がってくる、ね。私共の周囲にゃあ、あまりにも目にあまる事、あまりにも不足不平を言わなければいけない様な事が多い。確かにこの世は苦の世だなと思う。それが遠い事ならまだ良いけれども、身近な事にそれがある。もう自分とその幸、不幸が直結しておる様な事の中にそういう不平、不足がある、ね。主人がみたらん様に思われたり、家内が気のきかん様に思われたり、もう身近かな所に不平があり、不足があるのです。
だからこの不平、不足をまず感じなければ、実をいうたら真に有難いのは生まれてこんのだと私は思う。いいですか、だからそれまで不平、不足言いぱっなしじゃいかんのです。ね。身にあまる様な事、不平不足を言わなければおられない様な場合、ね、そういう様な場合にです、これは、それでも私の家内だから、これでもやっぱり縁に結ばった私の主人なのだから、これは私の血を分けた子供なのだから、これは私のやはり血のつながりであるところの親なのだから、ね。それはいうならば、私のそのまま鏡なのだから、私が改まって行く以外にはない。さあ、ここになってくる時に生まれてくるのが真に有難い。
これはね、真に有難いというのはね、もう涙が流れる様にこんこん溢れてくるというのではないのです。そういう場合もあります。ああ、あの姿こそが私の姿なのだから。私の一面なのだから。私が修行さしてもらいます。私がお詫びさしてもらいます。私が改まらして頂きます。というそこにです、信心を頂いておる有難さというのがあります。不平の言っぱなしじゃない、不足の言い放題じゃない、不足を言おうとする前に不足はある、不平はある、身にあまる様な事もあるけれどもね、その次の瞬間にはです、あれが私の姿であるとわからして頂くのだ、そのわからして頂くという事が有難い。その有難いというのが真に有難いのです。
今日の真に有難いのが初めての真に有難いですけれども、皆さん簡単な有難いですよ。これは、わからにゃいかん。それがおかげの受け物だと神様はおっしゃるのです。如何に神様がね、その事を求めておいでられるか、如何にそうあってくれよと、願うておられるかという事がそこからわかります、ね。子供が言う事をきかん。その子供の姿が私の姿であるとわからしてもらう。今まで、今不足であった心は、次に私の心に向けられておる、そして、ただ、そこんところを詫びるだけじゃいかん。そこんところに私が改まりますから。
私は、今日そういう様な事がありまして申しておりましたらね『真愛」という事を頂いた。しんとは真の愛という事。ああ、これが真愛なのだ。真の愛というのはそういうものなのだ。例えば、子供なら子供が、まっ主人なら主人、家内なら家内が身にあまる様なものを見た時にです、聞いた時にです、それが私の姿なのだからとわからしてもらうところに、もうそこに不平や不足はないのである。その心が真に有難いのである。いいですか、その心が真に有難いのであり、信心頂いておるおかげで、こういうふうに思えれるんだ、いや本当の事が思えれるのだ。そこにわざと姿を見せてもらうという事が有難いのだ。信心を頂いておる有難い。これが真に有難い。それからその先なんです。真愛というのは、ね。そういう姿がです、そんならあって良かろうはずはないのですから。その為のお詫びの印に、私が改まりますからというその私が改まりますからという、それが真愛なんです。真の愛とはそういうものなんです。その辺が皆さん、わかるだろうか。
真愛が神に通じないはずはない。真に有難いというのが神様に通わないはずがない、ね。ここに真に有難いとはこの様な事。真の愛、真愛というのはこの様な事。この真愛というのは甘木の教会で、この真愛という事を使われます。このまことの愛。まことという事を沢山使われます。例えば、この沢山な会があるのにゃあ必ず、まこという字が入っとる。真実一路の真なんですよ。
そりゃあ甘木の親先生あたりなんか、もう全然私共とは信心の、そのスケ-ルも違いますし、信心の程度も違いますがです、先日、先生のお弟子さんのお話を聞いたんですけどね、先日、青年教師会のここでございました時に、大里さんという福岡教会の総代、話しておられましたんですけどね、甘木の教会の出社にね、ふなぎという教会がある。山口県に。秋永先生の姉さんがそこで楽の御用を頂いとります。非常に御ひれいの輝く教会なんですね。そこに参りますとですね、親先生ご夫妻、もう親先生に親御様もう奥様の事を親御様とこういう、本当に徳の高い方らしい。その親先生と親御様は白いご飯を召し上がる。それから、そこに御養子にみえとるご夫婦親子三人は、麦が三割入ったご飯を召し上がる。
修行生の方が何人もおられるそうですがね、修行生の方達はもう朝から晩までおかゆばっかり。ちょっと考え方ではですね、むごい様にある。その事を大里に話された。もう大人なら我慢もしますけども、太りざかりの子供たちがひもじい、ひもじいと言うのにゃあ、もう本当に切ないと言われた。切ないけれどもです、その子供が切ないひもじい、ひもじいと言うておるのを見てから、私共夫婦は良い信心が出来ます、初めて親先生の気持ちがわかります、いわゆる真愛がわかります。と言うて話されたという事でございます。
修行生の身分で、お前達が布教に出たら、必ず初めはおかゆさんを頂かんならんぞ、いや、そのおかゆさんすらも頂きかねる様な事があるかもしれんぞと、命をかけて布教に出るのだ。今この修行中に、その家族中がそういう修行しとかなければどうするか、これが親先生の、いわゆる真愛の現れがその様な事になっておる。親先生が白いご飯召し上がって、御養子、御夫婦は、親子三人は麦が三割入ったご飯を召し上がる。修行生の方達は、家族の方達がおられるそうですが、家族ぐるみおかゆばかりである。【 】な事じゃ。もうこれは、けれども我々信心を高めというかね、信心生活はやっぱり違わなけりゃあだめ。私共ではなかなか今のところ出来ない。けれども真愛とはね、そういう様なもん。それを、そのわからして頂く。親先生の願いはどこにあるか。これ達にゃあ、おしいから硬いご飯食べさせん、そういうもんじゃさらさらない。本当にお前が助かる事の為に、本当にお前が布教に出た時に苦労せんで済む様にという願い、おそらくその陰にはね、親先生がもう心から塩をその修行生達の為に、送っておられる事は考えられます。でなかったら、そういう御ひれいが輝くはずがありません。真愛とはそういう様なもの。真に有難いというのはそういう様なものだ。
そこで皆さんそういう、例えばです、私共の周囲にはあまりにも不平や不足がありすぎる。けれども、そこまでは、だから信心があってもなくても同じ事。不平なんかいっちょも感じません、もう腹も立ちません。
先日参って来た人の中に、私は子供の時からまだ腹を一ぺんでも立てた事がない、という婦人が参ってきました。ところが、その問題はどういう事かというと、嫁さんとの折り合いが悪い。
だから「あんた方、そりゃあ、本当に腹ん立たんとじゃなかですばい」「いいえ、私はもう子供の時から教育勅語で育てられとるから、もう絶対子供の時から腹は立てん、人は羨まん、羨む事、妬む事やらは、もう一番人間の汚い事として教えられておる。
だから羨む事もなかなければ妬む事もない。勿論、腹を立てる事もない」と言いながら嫁さんとの折り合いが悪いとはどういうわけだろうか。
いわゆる教育勅語的なものではいかん。修養的なものではいかん。信心の心から生まれてくる「腹立てば、心の鏡がくもるから」とおっしゃる、その心の鏡がくもらんで済む様なおかげ、いやくもっても、すぐ拭けれるところのおかげ、そこに真に有難いとか真愛とかというものがわかってくるのである、ね。
本当に腹を立てないというほどしの人ならですね、とても嫁さんなんかがお母さんの言う事を聞かんはずがないですよね。
そして、もっともっと幸せにならにゃいかんですよね。けれどもおかげ頂いてないのは、ただそれは成程、まあ、ぐうぐう言うてこらえておんなさったかもしれません。それではおかげにならん。それがきれ-にこう昇華しなきゃいけん。腹が立ってもよい、不足があってもよい、けれども、それがすぐ信心によって清められていかなければいけん。これは確かにこの世である。難儀があまりにも周囲に多すぎる。そういう難儀に直面した時の私共の心掛けというものを、教祖は説いとって下さるわけなんですね。それが教えなんです。そこに金光大神取り次ぎの道の働きがある。そこの現場において生まれて来るわけなんです。
昨日、『朝の御祈念に私共二番目の息子が御祈念中に、御心眼を頂いた。あまりにもありありと御神前にこう御祈念をさしてもらっておる時に、黒わくの中に入っておられる親先生の写真を頂いた。お葬式の時に使う大きな写真を御心眼に。もうそれこそ胸がはっとする様に、その思うたとこういう。霊神様の前で御祈念さして頂きよったらお茶がほしいというお声を頂いた。私はそれを聞かして頂いて、誰がお茶を求めておるだろうか。そこへ隣、御霊様がおられるのであろうか。久留米のみつはし先生がお茶好きじゃったからみつはし先生じゃないだろうか。けれども、そげん今時ほしいなんて言う様な助かり方をしとるはずがない。
もっと助かっておるはずだ。わからんままに一日を過ごさせてもらった。御祈念が終わらせて頂いてから、そして、私長女に申しましてから、おうすをたてさせました。
そして御霊前にお供えさせて頂いた。もう私共下がってから【 】先生、しげおさんとお茶を頂いとる時に、丁度お茶をお供えしてまた下がってまいりました。もう今日は恐れ入った、あの霊神様へお茶を供えさせてもらわなきゃならんと思って、準備をしてからやかんを持ってきた。その時にですね、あのもうこれで、よかよかって言った様にざぁ-と思うた。
だから、あ-、しかし霊神様にこげなこっちゃいかんと思ったとたんにですね、やかんにカチッとおいさみがついた。御霊様が求められるもの、神様が求められるもの、こんなこっちゃいかんというそういう心を求めておられる。その求めに応じた時に神様が喜んでおって下さるのである。御霊様の求めに応じた時に、天地の親神様の心に思いにこちらが入っていった時に神様が喜びの印を、おいさみに現しておられるしょ。
ですから神様に喜んで頂けれるいわゆる事というのは、神様が求めておいでられる事にこちらが「はい」と言う素直な心になる事が、そしてそれを行の上に現して行く事がね、神様が喜んで下さるという事はそういう事であるという事がわかるでしょうが。ところが神様に喜んで頂く事という様な事を全然思いもしない、考えもしないで不平不足の言いっぱなし、不足を心の中に思いっぱなし、ね。
そしてする事、言う事が信心になっていないならば、これで蕗繁盛のおかげを頂こうなんていう事はこりゃあ難しい。おかげは受けてても、そういう間違いのない、いわばおかげになってこない。「お取り次ぎを頂いて出来た事は良い事も悪い事でも皆良い」ね、「お取り次ぎを頂ずして出来たは良い事でも悪い事でも皆悪い」ここのところの確信に立って、金光様の御信心はある、ね。
生神金光大神取り次ぎの道の御ひれいを、めいめいの現場の上に現して行かなければならない。なら言葉はそれだけなんです。現場の上に現して行くという事は、どういう様な事かという事を私申しましたですね、今日は。それを真に有難いという心、今までは聞いた事のなかった真に有難い、ね。そのところを一つ皆さんようとわからにゃいかん。これはもう早速出来る事なんです。不平不即があるでしょうが皆さん。だがそれを自分の鏡と思うてです、自分の心の方へ向けて、ね、それが信心頂いておるという事は有難い事である。この様なふうに思われるという事が有難い。それが信心が有難いのである。それが神様が求めたもん。
「あっ、そこがわかってくれたか」と言うて、そんなら、おいさみの一つも下さる時ゃあそういう時なんだ、「そこがわかってくれたか」そしてそれだけではない、そういう目にあまる様な姿に触れた時にです、「私がかわって信心致しますから」「私がかわって修行致しますから」と、私がみがく事に、改まして頂く事にもう一段信心を進め、そういう信心をもって真愛なのだ。真の愛っていうのはそういうものだっていう事を今日は聞いて頂いた、ね真に有難いと思う心、すでに御かげのはじめ。
そしていつもその真愛が心の中に動いてくる。そういう、私は稽古がね、日々続けられて行かなければならない。勿論、お取り次ぎを頂いて、お取り次ぎの道の御ひれいがそこに輝く。
最近言われております、自己を肯定しないでの生き方、ね、自己をというて否定もしないという生き方、先程ひろこ先生がその説明をしておりましたですね。教祖様はそこのところを、「これですんだとは思いません」そして実際はどういう事をしておられたかというと、もう人間の知恵やら力やらではなされるだけの事をなさっておられる。四十二の厄をはろうて頂きたい為に、もう、それこそ神社仏閣を、もう巡り巡ってお願いをしておられる。
そしていよいよ四十二歳のその大患の時、のどけを患われた時に金神様から、今日で金神にさわりがあると言われた時に奥様のお父さんが言うとられます。古川ようぞうさんが「ここの家の主人に限ってその様な事はない。見るものは見た、する事だけはした」とこう言われたわけなんです。それを聞いておられた教祖の神様が「ただいま氏子の申しました事は間違いでございます」と「ただいま、ひらに、ひらにお許し下され、人間凡夫の事であいわかりませず、どこにお詫びがあるやらわからない、どこにご無礼があるやらわかりません。ただいま父親が申しております事は間違いでございます。どうぞ、ひらにひらにお許しを下され」と言うておられる。
そういう姿勢、そういう態度がです、金光様の御信心のもう基礎になっておるいう様な事を、まあ御書物を読みながらさっき話しておりました。こりゃあ勿論神様とてもそうなんです。神様も肯定はなさらない、否定もなさらない。これこれだけの信心をしなければ、おかげはやらんといった様な事はおっしゃらない。かというて、ならそれで良いのじゃない。もっともっと本当の事をわかれというておられる。神様も同じ事、私共もやはりそこんところをです、肯定しないでの生き方、同時に否定もしないという生き方そういう生き方の中にです、そういう事をわからして頂いてから、今日取り次ぎの道の働き、取り次ぎの道に現れてくる御ひれいをです、お互いの現場に現して行こうと。現場に現して行く為に今日の信心の、今日の御理解の内容があったと思うのでございます。
どうぞ。